消失した密教経典を保持する老ラマ僧

消失した密教経典を保持する老ラマ僧

 米国カリフォルニア州にあるチベット仏教オディヤン寺院では、毎年多くの経典を制作し、ブッダガヤ世界平和セレモニーに参加する一万人のラマ僧全員に無償配布している。今年のセレモニーでの私の仕事の一つは、アメリカから送られたコンテナ十五台分、十八万冊の経典を、亡命全チベット寺院に配布する総責任者であった。

 チベットでは五九年に中国共産軍の侵略時とその後の文化大革命時に、多くの経典が燃やされ消失してしまった。現在亡命チベット寺院では経典が絶対的に不足している。特に貴重な密教経典は散逸してしまったものもあり、経典の復刻は重要な意味を持っている。

 タルタン・トゥルクは、散逸消失する人類の知的財産である仏教経典を保存する目的で、全ての経典を収集し開版する決意をした。彼が設立したダルマパブリッシング(出版部社)によって、一九八〇年に五千数百巻に及ぶチベット大蔵経を百二十巻の装丁本、「ニンマ版大蔵経」として開版する事業が行われた。また九五年には、チベット大蔵経には含まれない古タントラ、仏説、埋蔵経典、またチベット仏教史における全てのラマ僧の著作を収集し、七百余巻にまとめられた「チベット蔵外経典」の開版を成し遂げた。これはタルタン・トゥルクとダルマパブリッシングのスタッフが、多大なる年月をかけて世界中の図書館や研究所、所蔵家をリサーチし収集した結果といえる。しかしリサーチの結果、二割ほどの経典が完全に消失してしまったのではないかと推測している。それでもなお、一巻でも存在していることを信じて、今現在もリサーチ活動が続けられている。

 私がブッダガヤセレモニーの運営委員の一人として忙しく駆け回っていた時、一人の老ラマ僧が語りかけてきた。「私はブータン人のラマ僧です。三年前の法要でタルタン・リンポチェとお会いした時、私が唯一持っている貴重な経典をお貸しすることをお約束しました。どうぞ、この経典を彼に渡してもらえませんか。彼の蔵外経典の中で後世に守り伝えていただければ、全ての仏教徒の幸せです」 彼の胸の中には古い錦に巻かれた経典が大切そうに抱えられていた。私はこの老ラマ僧の話をじっくりと伺うにつれて、仏教の歴史が現在に連なる瞬間とその責任を感じ、経典を受け取る手が震えた。

 七五歳になるブータンの老僧、ラマ・ペマワンギャルは十六歳の時、正法を求めてチベットに渡った。ある有名な高僧の元で二十年間厳しい修行をし、多くの経典を学んだ。中でも師から貴重な密教経典の教えを学んだ時、彼は唯一金文字での写経を許され、ブータンに教えと共に持ち帰ることができた。しかしその後チベットが侵略に遭い、チベットではその経典が焼かれ、消失してしまったのであった。老ラマ僧は、約半世紀間その貴重な経典を肌身離さず、どのように後世に伝えるかを祈っていたという。

 タルタン・トゥルクは若い時にその教えを学ぶ機会があったのだが、経典と共に亡命することはできず、長い間その消失を深く嘆いていた。その四十年後ブッダガヤの地でラマ・ペマワンギャルと出会い、経典の存在を知り驚愕した。消失してしまったと思われる二割の経典の内、今では世界中で一巻しかない経典が、老ラマ僧の腕の中に大切に保持されていたのである。
 一巻の経典に秘められた深い仏教史は、人から人へと手渡されてきた仏法の精神の顕現のようである。私はブッダガヤセレモニーで経典を配布しながら、仏法が未来へと長く受け継がれますようにと、ラマ僧達に一巻一巻祈りを込めて手渡さずにはいられなかった。


中日新聞2000/5掲載
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