転生ラマのゆくえ

 チベット仏教には、トゥルク(化身)と呼ばれる転生者の思想がある。一般に日本では活仏とか転生ラマと訳される。この来世に生まれ変わるという考え方は、仏教の輪廻思想に基づいている。生前に修行を積み、解脱を得た高僧やヨーガ行者は、その深い慈悲心と瞑想の力によって、死後49日の中陰期間を目覚めながらにして次の生を選び、菩薩として人々を苦しみの世界から救うために生まれてくると信じられている。

 この転生思想は、チベットにおいて約600年前に始まった。最も高度な転生者は自らの来世を自ら予言し、前世の記憶を持って生まれて来るという。また神託によって選ばれたり、時には政治権力に巻き込まれたりもし、チベット仏教思想と文化の中に深く浸透していった。信仰深く功徳ある両親の子供が選ばれると、(それは必ずしも良家に限らず貧しい農家の子供の可能性もあるのだが)彼は生前の寺院に連れて行かれ教育を受ける。実際に重要なこととして、幼くして選ばれた子供が立派な転生者となるかどうかは、その後十年以上に渡る厳しい英才教育に掛かっている。仏教教育をしっかりと受けることで、生前の高僧の功徳を引き継ぎ、彼は本当のトゥルクとなる。

 トゥルク(活仏)は、チベット侵略以前には数千人いたと伝わるが、侵略後に殺されたり転生先を見つけることができずに、現在では千人弱しか生存していないと言われている。
 トゥルク制度の問題が表面化したのは、パンチェン・ラマの転生認証問題であった。中国のチベット侵略後、北京に留まったパンチェン・ラマ7世が、1989年に亡くなられた。その後、亡命政府のダライ・ラマはその転生者として9才の子供を見つけだした。しかしその直後、中国北京政府は新たなパンチェン・ラマを立て、ダライ・ラマが認定した子供をどこかに幽閉してしまった。

 実は現在、パンチェン・ラマに限らず、ドゥンジュン・リンポチェ、カルマパ、カール・リンポチェなど、チベット人の深い信仰を集める故高僧が、亡命チベット側と中国側に一人ずつ見つけだされているのだ。これは、中国政府が中国領チベット人の信仰心を利用して宗教的政治的に統治するためだと非難する人たちがいる一方で、亡命政府と中国政府と分かれてしまったチベット仏教には、それぞれの仏教指導者が必要なのだと言う人たちもいる。しかし、人々の苦しみを救うため菩薩として転生すべきトゥルクが、国際政治の中に巻き込まれ利用されている事実を、一番嘆き悲しんでいるのは全てのチベット人たち自身なのだ。

 ダライ・ラマ十四世は数年前から、「ダライ・ラマ制度は十四世で終わるであろう。私は転生しない」と幾たびも言及している。彼は転生者としての十五世が政治的混乱に巻き込まれることを予知しているのかもしれない。またこの発言は、チベットの政教分離を示唆し、宗教指導者に頼らないチベット人による民主的な政治を願うものと受けとめられている。
 厳格な指導で有名なニンマ派の老僧チャプタル・リンポチェに、私は以前話を伺ったことがあった。「亡命以後、純粋なチベット仏教文化が壊れ、西洋の世俗事にうつつを抜かすタイトルだけで修行をしない転生者など、もはや意味をなさん。しかし、真に力のあるトゥルクならば、たとえタイトルなどなくても、しっかりと修行を納め、菩薩として人々の役に立つ人間になるはずじゃ。だからあんたも頑張って修行に励むがいい」

 チャプタル・リンポチェの厳しい言葉に、チベット仏教の将来を願う深い思いを感じた。
 

中日新聞1998/5掲載
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