チベット仏教の瞑想

 お釈迦様はブッダガヤの菩提樹の下で四九日間の瞑想をされて、全ての存在は実体を持たない「空性」であると悟られた。仏教では瞑想がとても重要とされ、経典の学習と共に重要な修行と言われている。日本には禅として伝わった仏教の瞑想の伝統は、チベット仏教ではゾクチェンやマハームードラとして伝承されている。

 仏教の瞑想は、他の宗教の瞑想とは違う点が幾つかある。その一つに仏教の瞑想では目を閉じることはなく、半眼もしくは開眼で行う。また仏教の瞑想の目的は、超能力を得ることでも非日常的意識状態を得ることでもなく、釈迦の悟りの境地である「空性」を体現するために行う。現代人が仏教の瞑想を行う時、これは忘れてはならない点である。

 九六年、トゥルク・ウーギャン・リンポチェという一人の老ラマ僧が八十余歳で遷化された。彼はニンマ派に伝わるゾクチェンの瞑想とカギュ派に伝わるマハームードラの瞑想の法脈を共に保持する貴重な存在であった。私は彼の死の数年前に瞑想指導を受けたことがあり、私だけではなくチベット仏教の瞑想を修行する者達にとって、彼の訃報は非常に悲しい知らせであった。ゾクチェンやマハームードラという空性を体現する高度な瞑想は、一朝一夕では成し遂げられない。瞑想修行者は師から教えを伝授されてからも、数年から数十年に渡ってその瞑想を体現するまで孤独な瞑想修行を続けなければならない。そしてこの高度な瞑想の境地を得る為に、先達から時々に指導を仰ぎ、自分の境地を確認するのである。


 トゥルク・ウーギャン・リンポチェが荼毘に附された時、虹が現れた。多くの弟子達は師が虹の身体(ジャ・ル)を体現されたのだと驚き、大いに喜んだ。生前にゾクチェンの瞑想修行を成し遂げた者は、この虹の身体を得ると伝統的に言われているからである。しかし、このような深い瞑想の境地は一度途絶えてしまうと、二度とこの地球上にその境地は存在しなくなる。チベット仏教史上でも、かつてトンジュクという高度な瞑想がインドより伝えられたが、十二世紀ほどにその伝承が途絶えてしまったという経緯がある。だから、例えゾクチェンやマハームードラという高度な瞑想法を伝授されてとしても、それを体現する為に長い年月をかけて修行し成就しなければ、真の瞑想を得ることはできない。だから多くの修行者は、瞑想を成就された先達を励みとして、修行を続ける。

 大乗仏教の基盤である中観哲学には、二元論的思考に支配される日常的意識を乗り越え、「空性」を体現する方法が二種類ある。一つは経典や論釈書を学習することで「空性」の哲学的見解を得る帰謬論証派である。一方、学習によって空性をある程度理解できたならば、あとは瞑想によってそれを体得しようとする自立論証派がある。同じチベット仏教でも、ゲルク派では学問的手法を重んじ、ニンマ派では瞑想的手法を重んじる。宗派によって、学問的手法か瞑想的手法と「空性」へのアプローチが異なる。

 「三昧」という高次の精神状態は、瞑想によってのみ成し遂げられるものである。またその境地を体現した師より直接指導を受ける以外に、伝授される方法はない。禅宗に伝わる法脈も、老師が弟子に言葉によることなく禅の境地が伝えられる点は同じである。経典の学習だけでは到達できない精神の意識の高みが、確かにそこには存在する。

 かつて、アジア全土に広がっていた「空性」という高次の精神性を得る瞑想と伝承は、今日では現代の資本主義的世界観によってその価値を失いかけている。瞑想による三昧の境地は師から弟子にのみ脈々と相承されなければ、途絶えてしまう他はない。老ラマ僧の死は、チベット仏教だけではなく人類にとっても、精神の宝の喪失であるように思える。チベットでも高次の瞑想を体現されているラマ僧は、そう多くはおられないからである。

中日新聞2000/5掲載
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